自然の中でのお仕事

第1部:自然体験活動を仕事とするまでの紆余曲折

誰も知らないお仕事

Googleで「自然 仕事」と検索すると、さて、どのような検索結果になるのか。。

「ボランティアですか、素晴らしいですね。」「ボーイスカウトですか。」一般の方に、仕事の説明をするとほぼ100%いただけるリアクションです。環境教育事務所ネイチャーブランドプランニングのメインのお仕事は、幼稚園・保育園からの委託(つまり、主催は幼稚園や保育園ということです)で実施している、幼児の自然体験活動の機会の提供です。自然体験活動ですので、仕事の舞台は自然の中です。「森のこども園」と謳っていることもあり、その多くは里山で実施しています。

歴史の浅い自然体験活動

幼児向けの自然体験活動のお仕事は約10年前からはじめています。それまでは、自然体験活動(かつては、野外教育ともいいました)の仕事がしたくて、右往左往していました。おそらく、自然体験活動という言葉が造られてから、50年も経っていません。ちなみに、自然体験活動推進協議会が設立されたのが、2002年です。この記事を投稿したのが2021年なので、ちょうど20年目となっています。

小3の魂100まで

私が「自然体験活動」と出会ったのは、小学校3年生の時に、町の教育委員会主催で連れていってもらった、サマーキャンプがきっかけです。大阪府能勢町にあった、大阪府立総合青少年野外活動センターに行きました。たぶん1泊2日のキャンプだったと思います。カレーライスをつくり、キャンプファイヤーをして、テントで眠り、翌日はオリエンテーリングをする。当時のゴールデンメニューだったのではないかと思います。暑くて、煙くて、そして最高に美味しいわけでもないカレーライスが好きなわけでもなく、蒸し暑いテントが好きだったわけでもなかったのに[あ、キャンプファイヤーは、当日は大好きでした。(いつか、キャンプファイヤーに関する思いの記事も投稿しましょう)]、この、小3の夏休みの2日間の経験・出会いが私の人生の軸足となってしまいました。

出会い

私のこの2日間が一生の思い出になったのは、出会ったキャンプカウンセラーです。当時、関西のキャンプ業界の多くでは、大学生のボランティアを「カウンセラー」と読んでいました。もう名前は思い出せませんが、担当していただいたキャンプカウンセラーが、「スーパーマン」に見えたのです。このスーパーマン達が私の人生を変えるきっかけとなりました。

大事なメモ

大学生になったら、キャンプカウンセラーになりたい。なんとなく、そう思っていました。そして、なんとなく高校に入り、なんとなく大学合格通知をもらい、「4月から行くとこが決まったなぁ」なんて思っていた頃です。ながーい春休みに「退屈」を感じながら、自宅でテレビを見ていた時に、「青少年リーダー」募集のCMが目に入ったのです。当時は、スマートフォンが片手にあるわけでもなく、いそいで、応募先の電話番号のメモをとった記憶があります。

青少年リーダー

そう、大学入学と同時に、私は「青少年リーダー」になったのです。当時はバブル経済真っ盛りで、私が入団したのは、在阪マスコミが抱える財団で資金も豊富にあったのでしょう、我々青少年リーダーは無償:ボランティアでしたが、交通費の支給、週に1回講師を呼んでの研修、月1回の宿泊研修、夏休みには(子どもを引率しての)サマーキャンプ、冬には(子どもを引率しての)スキーキャンプにつれていってもらえました。

アウトドア三昧

さらに、アルバイトはキャンプ場で定期的に働き(こちらは、掃除とか準備とかがメインで指導的な役割はほとんどありませんでしたが、不思議なことに男子大学生がメインで回しているキャンプ場でした)、また、私が入団した財団が旅行企画面でお世話になっていた、旅行会社からも、子どもたちをキャンプやスキーに連れていく引率のアルバイトで採用されていたこともあり、1年の1/3くらいはキャンプやスキーなどという、アウトドア三昧だったような気がします。つまり、私の大学時代の1/3の時間は野外教育が軸で、毎日が楽しくて、楽しくて、という日々だったのです。もちろん、流れるような日々に任せ、深く考えることもなく、なんとなくこんな生活を仕事としたいなぁと考えていたのです。

アメリカに行こう

大学4年生。私は、奇跡的に、3年生までに必要な単位のほとんどは取得しており、あと2科目の単位を取得すれば無事に卒業でした。(そして、無事に卒業できたのです。)周りの友人たちは、就職活動に励んでいましたが、私はアメリカに行き、アメリカのキャンプ場で働こうとぼんやりと思っていました。(親のスネカジリで、高校の時にアメリカに1年、そして、大学2年生のときに大学の交換留学生として8ヶ月ほどカナダの大学に行っていたのでなんとかなると思っていました。)

夜行列車で就職先が決まる

ぼんやりと過ごしたまま迎えた年末。前述した旅行会社のアルバイトで、信州へ子どもたちをスキーキャンプに連れて行った帰りの夜行列車の中で、旅行会社の社長から「4月からはどうするんだ?」と問われ、「アメリカに行って働こうと思っている」というような返事をしたような記憶があります。社長のOさんに「日本の会社も知らずに、アメリカに行って働くなんてことはするな」、「うちの会社に就職しなさい。ただし、うちの会社は子会社なので、親会社に正社員として採用されないと給料が安い。。。。。。。正月明けに、就職試験を受けられるように手配するから来い!」と言われ就職試験を受けに行ったのが、思いもしなかった進学塾だったのです。

算数:中学入試問題

採用決定。採用時期でないにもかかわらず、筆記試験を受け、3回の面接試験を受け、進学塾を運営する会社に採用が決まりました。2ヶ月に渡る新人研修を終えた後は、子会社である旅行会社への出向が決まっている規定路線でしたが、(私にとって)地獄の新人研修のメインは、難関中学入試算数を教えられる先生を育成するものでした。もちろん、ビジネスマナーや、社会人としての動きなど、学生時代には思いもしなかった研修内容でしたが、ここでの研修が社会人しての規範となり、そして、今の自然体験活動を生業とする基盤となるとは、当時には想像もできないものでした。

野外教育担当者デビュー

前述のように、新人研修を終え、出向で旅行会社勤務となり、「野外教育担当」という肩書をいただき、夏休みのキャンプの段取りを始め、全国の子どもたちの引率で初めての九州へ行ったり、東京ディズニーランドへも仕事で行ったりと、それは楽しい3ヶ月だったのです。

青天の霹靂

夏休みの仕事を終え、あと数日で9月を迎えるという頃、「突然」出向解除命令とともに、異動命令が発令され、なんと進学塾の現場へ配属となったのです。バブル経済崩壊の波が会社の屋台骨である塾現場にも押し寄せており、人件費削減のため、「全社員営業体制」となり、部門部署関わらず、社員全員が週に1度は塾現場で授業をするということなり、新人である我々は完全に配置変えとなったのです。

野外教育から受験教育へ

この時点で、仕事を辞めてもよかったのですが、なぜか「3年間は我慢して頑張ろう」と決意してしまったのです。野外教育を目指していた私が、受験教育をする。考えもしなかった選択肢でした。中学受験があるということさえ、ほとんど知らなかった私には、中高入試対策の日々はとてもつらかったです。何よりも嫌だったのは、勉強なんかしたくないのに、保護者の希望で中学入試をしないといけず、学力も成績も伸びない子どもたちの指導でした。

紆余曲折の10年のスタート

塾の先生って、授業の準備を勤務外でしないといけないのです。たぶんそれは非正規の従業員が勤務外で準備しているので、正規社員は非正規の手前そうなっているのでしょう。(今はどうなのでしょうか??違法残業?)10時頃に出勤して帰宅は午前2時頃、それから、授業の準備をするという日々を3年ほど過ごした頃に、例の旅行会社の社長(その頃は、そこの担当でもなくなっていましたが)から電話があり、山村留学の部門を設立するということでした。

現場復帰

約3年ぶりに、自然体験活動に「近い」現場へ戻ってくることができました。この山村留学施設では、小学2年〜6年生の子どもたちと一緒に暮らしていました。子どもたちは、日中は地元の小学校に通っているスタイルの山村留学施設で、我々は下校後、朝、休日のお世話やイベントがメインでした。地元の方々にお世話になり、里山の植物のことなどを教えていただく機会になりました。

迷走

山村留学施設では、責任者としても携わっていたことがあり、何を勘違いしたのか、自身の力を勘違いし(自身の力ではなく、会社の力だったのですが)、さらに、海が近い、スキー場が近い、お酒が美味しいなど、自然環境のとりこになったこともあり、なんの保障もないのに会社を退職し、仕事を探しはじめました。

ホームレスぎりぎり

バブル崩壊のあおりの風が吹き荒れる地方では、仕事などがなく半年ほど、根無し草のフリーターのような、日雇い労働者のような生活をしていました。その時に経験した仕事は、水道などの設備屋、リゾートホテルのフランス料理レストランでのサービス、結婚式場の黒服など、「自然体験活動」とは全く関係のない仕事でした。迷走生活が始まったのです。

造園屋から薪ストーブ屋

山村留学施設の時にお世話になった方のご紹介で、正社員として入社したのは「園芸店を併設する造園屋」でした。ここでは格別の待遇をいただきましたが、全く経験をしたことがない「営業」の仕事が待っていました。庭を作る仕事なので、樹木や下草の名称、植栽の向き不向きなどの知識は必須で、なんと繁忙期には「雪吊り」現場にも出向いていました。この時期に妻と出会い結婚もし、娘も生まれたのですが、社屋の敷地内にあった薪ストーブ屋に「薪ストーブ屋にならないか?」という誘いを受け、なんと独立することになりました。ものを売るということが苦手な私には、安定的な売上をつくることができず、市内の別の薪ストーブ屋さんの求人に応募することになりました。



倒れる

「就職した」薪ストーブ屋は、とても忙しい会社でした。県外で仕事をして夕方に帰社しても、そのまま、逆方向の県外の現場へ行かないと行けないこととか、昼間の仕事を終え、22時に再度集合して夜間作業、そして、普通にそのまま仕事ということなどもあったり、片道500キロを超える現場を0泊2日で対応したりするというようなことが普通の会社でした。激務と営業成績というプレッシャーを抱えていた頃、38度ほどの発熱が半月ほど続き、現場へ出ても仕事にならないことがあり、会社の同僚からは、「熱くらいで休むな!」といわれていたこともあり、無理して出勤を続けたためか、とうとう倒れてしまいました。病院へ行った時には肺炎を患っており、先生に「どうして、もっと早く来ないのだ?」と、聞かれ、「仕事を休めないからです」と、蚊が泣くような声で答えると、先生が語気を荒くして、「死んだら、二度と仕事に行けないのですよ!」と叱られたことを記憶しています。

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神様に拾われる

動かない体と、先生の言葉に「休んで、体を戻さないといけない」と気付き、安心して休むためには「休むためにはやめるしかない」と決意した頃に、地元の地域振興団体が3年の期間限定で事務職員を募集していました。この団体の立ち上げに、関わっていたこともあり、無事に採用となりました。

第2部:自然体験活動を生業とするに続く

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